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プロフィール |
Author:徳衛門
ほんのひとり言
青い空と酒があれば どこだって住めるさなどと 若者じゃあるまいし
しかし年は気にせず 姿かたちも忘れてしまい
世間様に恥と顰蹙を 撒き散らしながらも 生きてます
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日本とフィリピン 往復おやじのひとりごと フィリピンには愛しき妻子? 日本には世話のやける爺婆? こちらを立てればあちらが立たず? どちらに行っても肩身がせまい・・・ ハズですが・・・ 大きな顔してエンジョイしてます |
呆気に取られる我が家の家系 |
昨日は寒かったですね 思わずまた冬物衣料を引っ張り出してしまいました
北海道では雪も降っているとか、、、
確かに私がいたときも5月の連休でも雪が舞っていましたし
レイテに帰ると南国の気持ち好さと、、暑さ、、
「雪を見てみたいな」
そんな気になるかもしれないです
さてと、、、
まあ、、、フィリピンはよく悪口を言われたり 書かれたり、、、
たしかに悪いところはいっぱいありますけど、、、
私としては 気になるところ、気にならないところ様々で
あまり一方的な見方は出来ないんですよね
元々、私の生まれ育ったところは博多
他の場所に行ったり、他所の方と話すと まず第一声は
「九州ですね」
これが出てきます
私としては、、、確かに九州なんですが、、、
何かちょっと違うような、、、
言葉は九州なんですが 九州であって九州でないような、、、
そんな気がして、、、
なんとなく、違和感があります
それで私の子供のころの話ですが 私をとても可愛がってくれる叔父さんがいました
その人は、戦後すぐ京都で寿司屋をしていたそうですが 日本人、米が食べられない時代ですので統制も厳しく
台湾人の名義で、店の名も台湾名
まあフィリピンで商売してある方と同じような形式ですね
まず、ここからして一般の人たちと違うのですが
店は大繁盛だったらしく
そのころヤミ米で1俵、60kgで2万円
公務員の月給が管理職で3000円くらいだったときですから ベラボ~ですよね
しかしいくら貧しい人ばかりという世の中でも やはりお金を持っている人たちは必ずいるもので
そんな人たちは美味いものを食いたいと、、、
お店を持っている人たちでも 米がないので店が開けられない状態ですし
お客さんはヤミ屋が多かったそうですが 京都ですので芸人さんも多く 「あちゃこ」が常連さんでよく森光子さんを連れてきていたそうです
そのころ1番大きな紙幣が100円札
営業中、頻繁にその100円札を紙のヒモで束ね 食器棚の上に置いてあるリンゴ箱に投げ込んでいたと、、、
今だと、1万円札を50枚か100枚束ねて ポンポン放り込んでいるようなもので、、、、
景気のよい話ですね
その叔父さんはもう私の子供のころは 周囲の反対を押し切って
「博多に帰る」と
中州で旅館していたのですが、、、
その叔父さんと我が父親との会話です
「徳をオレの養子にくれ」
「兄ちゃんは子どもがおらんけん気持ちは分かるが 徳は一人息子やし、、、やれんばい 娘やったら二人おるし、どっちでもよい方をやるよ」
「オレは女は好かん。徳がいい」
「兄ちゃん、そげん言うても一人息子やし 次、男の子が生まれたらそればやるけん」
「うんにゃ~ 次男が生まれたらおまえがそれをとって 徳をオレにくれ、、、」
まったく、、、まあ~~、、、
我が家の兄妹、、、
犬やネコの子じゃないんですから、、、
しかし、、、
これが我が家の現実ですし
そのころの日本って、、、フィリピンと大差はなかったような
そんな気がするんですよね
まあ、、、我が家が特別だったのかもしれませんが、、、
そんな環境ですから フィリピンのこと、あまり悪くは、、、ですね
私としても、、、
もっとも、その叔父さんからは 特別といっていいほど、可愛がってもらいましたけど、、、
今から考えてみると
我が家の家系って、、、
レイテの僻地のトンデモナイ連中より
「あっけ」にとられる家系だったような、、、
私がキチンとした家系に生まれておけば レイテに住んでも
また、、、物の見方が少し、、、
変わっていたのかもしれませんが、、、
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