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プロフィール |
Author:徳衛門
ほんのひとり言
青い空と酒があれば どこだって住めるさなどと 若者じゃあるまいし
しかし年は気にせず 姿かたちも忘れてしまい
世間様に恥と顰蹙を 撒き散らしながらも 生きてます
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日本とフィリピン 往復おやじのひとりごと フィリピンには愛しき妻子? 日本には世話のやける爺婆? こちらを立てればあちらが立たず? どちらに行っても肩身がせまい・・・ ハズですが・・・ 大きな顔してエンジョイしてます |
一神教とその場の空気 |
8月13日 月曜日
暑い日が続いています
「もう夏は終わりにしてくれ、、、」 そう思うこの頃ですが
今日はお盆の初日、、、
まだまだ夏は終わらない、、、ですね
さてさて、、、
ユダヤの話ですが
お祭りも神事なら神輿も神事 以前、生粋の博多の町、店屋町のごりょんさんだったおばあちゃんが 「山笠は神事ですから厳しいですよ!」キッパリ言っていました
確かに、一神教ですから厳しいでしょうね それ以外に道はないのですから、、、
日本人の八百万の神さまのようにあちらもこちらも、、、 その時の、その場所の、皆さんの空気 その、、、気みたいなもので何事も決まっちゃうことはないでしょうし
考えてみたら、、、日本人ってすべてにおいて 「その場の空気」これで決まるのですよね 助けるときも、捨てるときも、、、
どう動くか?
特別に誰か?が熟慮したわけでもなく その場の雰囲気で決まってしまうし それで皆さん納得してつい進んでしまう
日本人の存亡のとき、先の大戦でもこれの大連発 まったく考えられないようなことが毎日のように起こっていく
現地の最高司令官が「指示するまで絶対に撃つな!」 そう厳命しても
一砲兵隊のその場の雰囲気で撃ってしまい すべての計画がご破算
どれだけの日数と頭脳と人力とお金をかけても全くイミなさないことが 日常茶飯事に起こってしまう
レイテ沖海戦なんてそれの典型
昭和天皇の「なんとか一度叩けぬのか」
このツルの一声で始まった捷号作戦
海軍の総力をあげての大決戦 すべての艦船を失ってもお上の意向に向かって突き進ねば
そのためにも念には念を入れて北と南の2方面での囮作戦 壊滅されてもこれ一発にかけてのぞむも
本尊の栗田艦隊はレイテ湾に近づきアメリカ艦艇のマストが見えた時点でUタ~ン
小学生のとき従弟の家の戦争雑誌「丸」に 「あぁ 栗田艦隊、謎の反転!!」 表紙にそう書いてありましたが、、、
そのときは分かりませんでしたが たぶんその時点の艦長室に集まっていた 栗田、草鹿、その他数名の幹部の空気でそうなったのでしょうね
それでマッカ~サ~は生き延び やがて日本で天皇を超える人として君臨することになるのですが、、、
彼はよく「神のご加護に感謝する」と言っていたらしいですが 私とすれば、「日本人のその空気に感謝する」と言ってほしかったですね
アメリカとの物量の差で負けた
よくそう言いますが それだけではないのですよね
絶対の官僚機構 共産主義の機構ともいってもいいですが
いわゆる一神教みたいなもので トップが神の存在で絶対 その下に管理する人たちがいて 下の者は従うだけ 殺されるのも受け入れるだけ
こんなものはこの人たちには合わないのですよね
それでも勝ち戦のときはあまり目立ちませんが 負け戦になると途端に目立ってきて 上がいくらラッパ吹こうと収拾がつかない 戦争などというものではなくなってしまう
そもそもこの国の人たちって 戦争にはまったく向いていない人たちではないかと思うのです
戦争というものは犠牲がつきものですから そのためには絶対の規律、上からの指示には絶対従う
これがないと出来ないものでしょうし 八百万神の民ではムリじゃないかなと、、、
ただ、戦争というものは始まりがあれば終わりもありますけど
戦前だけの話ではないですよね
戦後でも「これはマズイのではないか?」とその場の雰囲気がそうなれば 粉飾決算でもデ~タ改ざんでもなんでもやっちゃう
三菱自動車なんて会社をあげて反省したかに見えても またやっちゃう、、、
仕方ないですよね 水田を切り開いて生きてきた日本人の末裔ですし その時の空気には逆らえませんから
挙句の果ては先ほどの 日本の最高の頭脳、日本の中枢、最高の司令塔であるはずの人たちが 公文書の偽造までやっちゃう
白人、、、一神教の人たちには全く理解不能でしょうね 公文書が偽造されたら何を信じたらいいのか? 信じられるものがなくなってしまう
ただ、日本人だとすぐ理解できて その時、その場の雰囲気でそう決まってしまったんだろう 仕方ないよね あとはバレないように丁寧に作業するだけ
でもまあ、、、バレてしまうこともあるさ、、、と
最初はユダヤ人が残したものでも書こうと思っていましたが いつのまにか脱線
いつものことですが、、、
もう今晩の為に寝る時間ですので
また今度、、、
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教える人たち、教えない人たち |
8月2日 木曜日
暑い日が続いています
年を取ると暑いのも寒いのもイヤですね
今日はすぐに本題に入ります
日ユ同祖論というものがあり、納得することも多く 確かにユダヤ人が日本に来て定住したこと自体は間違いないだろうと思います
大和朝廷を作った人たちで その宗教、思想、技能などはその当時いた原日本人 どれが本当の原日本人なのかわかりませんが その人たちを凌駕するものを持っていたと思います
大きな塊が突然現れ瞬く間に征服させられていき 日本は一気に塗り替えられ 血が入り混血も進んだのでしょうが それを受け入れたくない人たちもいたと思います 一種の植民地みたいなものですから原住民にとっては、、、
私は最初に結婚したい人が同和地区出身者だったため なぜこのようなことが日本にはあるのか? それが頭に引っかかっていました
この仕事をして様々な人から話を聞き ネットを読んだりしていて感じたことなのですが
古い神社の横か後方には必ず部落があるそうですね それはそうで神主さんもユダヤ人なら この人たちもユダヤ人
神社の建物から石組み、庭、調度品、衣類などすべて作る人たちがいるはずですし 毎日、掃除をするのも料理を作るのもこの人たちでしょう 在来の日本人とはマネができないほど圧倒的な技術の差があり 今と違って自足自給が基本でしょうから
しかし技術はやがて流失していくものですし この大きな塊も一枚岩ではなく内部分裂を起こしていく
私が思うに最初に楔を打ったのは仏教を入れた人たちではなかったかと もちろん天皇とそのシンパがやったことですが その当時の天皇は子どもが30人ぐらいいたそうですね 男の子が半分として、3世代でも兄弟叔父さん入り乱れてぐちゃぐちゃですよね そしてそれに背後から加担する勢力がいる
それまで神教ひとつだったのが仏教が入り 神仏混合になりやがては神教が廃れていくとともに 天皇の力も衰えていき、ただのお飾りになっていく
いわゆる塊を分断させて無力化していく これを望み実行してきた人たちがいるのでしょう
最終的な形が江戸幕府
農本主義の政府ですよね
士農工商、、、エタ非人
よく考えてみるとなぜ農民が2番目に来るのか この農民こそが在来種ではないのだろうかと
工は技術ですから広がったといえ元々ユダヤ人の流れ 商もそうじゃないかと 日本の昔からある商いは掛け率が異様に高いのですよね
部落の人の仕事だと言われている 医者、製薬業 薬なんて九層倍 衣料品でも江戸末期に三越が今のユニクロのように半値販売をやっても3.3倍 以前はいくらかけていたのか? おそろしいほどでしょうね 元々は魚屋もその人たちの仕事だったらしいですし
戦後の高度成長時代、中東を駆けづり回っていた商社員やメ~カ~の営業員 アラブ人からバカにされていたそうですね そんなに安く売って毎日アタフタして楽しいか?と
元々日本の商人はこの系統じゃないかと
逆に中国人は日本のやり方に怒るそうです 中国では買い叩きまわって日本でのデパ~トの販売価格見ちゃうと
考えてみたら江戸幕府というものは 1000年ぐらい続いたユダヤからの植民地解放闘争の結果だったのかもしれません そのワリを食ったのが部落に人たちじゃないかと 分断されて生贄のように最下層に落とされ
ただ福岡の場合、ユダヤ人ばかりではなかったのかもしれません 西の拠点が西新 そのすぐ南に祖原山 それから南の脊振までの地域が早良
このソハラもサワラもソウルのなまったものという説もありますし 都にしたいというのか? 住めば都という意味か?
これは朝鮮からの難民ではなかったかと 来たものを追い返すわけもいかず 農家として生きる権利は与える、しかし日本人と同等の権利は与えない
こっちじゃなかったのかと、、、
ただその中でも日本人離れした顔立ちの人もいますし ユダヤ人の血は入っているのでしょうね
博多祇園山笠だけでなく 神社のお祭りで神輿を担いでいる人たち 今では入れ墨した人を見かけなくなりましたが 元々はその人たちですよね
芸人でも水商売でもその人たち、そして座という商人も興業主も それを取り仕切るヤクザもその人たち
題名の「教える人たち、教えない人たち」
ふと考えたら日本には大きく分けて二つの流れをくむ人たちがいるのではないかと
農業を主とする人たち 結婚し子どもが生まれやがて孫が生まれてくる 必然的に人口は増加しますし 米の増産のために新しいタンボを作らなくちゃいけない それも収穫が終わって次の田植え時期までに
新田なんて傾斜のついた土地を水平にして水を引いてこなくちゃいけない こんなこと教えなくちゃできないし 子供でも誰にでも教えて早急に完成させなくちゃ来年は米が足りない
そしてこれは共同作業ですから他人であろうと必然的に仲間となるし 人がよくないとうまくいかない
ウチのかみさんもレイテの水田地帯出身のせいか 妙に人がいいところがあります
もう一つは職人さんの世界 誰も教えないから「見て盗め」これを当然のこととする人たち
大工、左官、庭師、板前でも芸でも ありとあらゆる技術系、特技系の人たち
この人たちは教えてしまうと自分の食い扶持がなくなるので必然的に寡黙になる 閉鎖的になる
商人も仲間に入ると良くしてくれるらしいですが 誰でも教えるってことはないでしょうし
考えてみると
明治になり天皇中心に戻って律令制というか社会主義の国になり それがまた解体
しかし日本人はそれなりに仲良くやっている
日本って本当に不思議な国なんだな そう感じてしまいます
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またもカンチガイで40年 |
6月28日 木曜日
あと2日で6月も終わり 今年も半分が終わってしまいます
もう夏至も過ぎてしまったし
3日前から風が強く、東北では大雨とか まさか、、、このまま梅雨が明けてしまうってことはないよね
あのギラギラした夏の太陽の下で 2ヶ月以上も生活する体力が自分に残っているかどうか
フィリピンのレイテ島にいた私がこんなこと書くのもヘンですが、、、
9月中旬に今までのように連休を取って渡比するつもりですが 今回はいっそのこと1ヶ月丸々休みにしてしまおうか? なんて、、、フラチなことを考えています
1週間ぐらいでは休みが休みにならないし 疲れはゼンゼン取れないし
2週間ぐらい寝て起きたらビ~ル飲んでまた寝て 疲れが完全に抜けてから家庭サ~ビスでもしようかな
給料とボ~ナスを捨てさえすれば出来るんですよね
あとは捨てる勇気だけの問題
断捨離の世界ですね
私は気が小さいしセコイ人間ですので 帰ってきてから「ボ~ナスだけは救おう」なんて頑張っちゃうかもしれませんが、、、
それはそれでいいのかも
そのときその気になれば、すればいいことだし その気にならず捨ててしまうのもまた結構
あまり難しいことは考えず 成り行きに任せて流れていくのもいいのかも
50代と60代って人間、変わるものかもしれませんね 全員がそうなるとは思いませんが ある程度、、、傾向としてあるのかもしれない
それで還暦とかリタイアエイジとか 節目というものを作っているのかも
そんなこと思ったりする自分がいます
話は変わりまして
最近ネットもあまり読まなくて少し前に知ったのですが 森田童子さんが亡くなったとか 65歳、、、
またひとつ昭和が消えていきました
昭和も遠くなりにけり
平成も30年たったのだから仕方ないですし 皆さん年取って、、、
老化というか、、、劣化というか、、、
私自身もそうですし
やがて消えていく、、、
50代の頃はそんなこと考えたこともなかったのですが 自然と受け入れ準備なのか
違和感を感じずそんなこと思ったりします
youtubeで昔の歌を聴いてサ~カスにたどり着きました
Mr サマ~タイム
たしか23歳の夏 暑い車のなか、よくラジオからイントロが流れてきて 「またこの歌か」 しかしあの声にいつのまにか聴き入っている自分がいて 今聞いてもやっぱり好きな声、好きな歌手です
聴いていて思い出した曲
「アム~ル」でも
サ~カスの人たち沖縄出身と思い込んでいたのですが ほぼ40年ぶりに聴いてウキで見てみると リ~ドボ~カルの叶正子さんは熊本県 弟さん2人は福岡県の出身
お父さんが毎日新聞の記者で転勤暮らし それで出生地を出身地にしているそう
あれ~~どこで間違ったのかな 私の記憶ってアテにならないな
ハニ~レ~ヌさんのときもそうでしたし
ただ、この叶正子さん この名前も今度知ったのですが、、、
南方系の顔していますよね フィリピンにもいますし
そのころはまったく考えもせず想像すらしなかったフィリピンでしたが 意外とピナイ顔を好きだったのかもしれませんね
こうしてみると、、、
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近況報告です |
5月29日 火曜日
いつまでも寒い寒いと言っていたら 昨日「梅雨入り宣言」が出たらしく
朝、梅と藤の剪定をしているとタバコが切れてしまい 近くのセブンイレブンに歩いていると アジサイの花がもうすぐ開花
毎日、車の運転をして生活費を稼いでいたら 知らない間に季節が移り替わっていきますね
もうタクシ~に乗って3年が過ぎました
東京などの大きな都市ならまだまだでしょうが 福岡は街が小さいですから
「石の上にも三年」という言葉がありますが
私の場合は 「3年もすれば飽きちゃうね」らしく、、、
ダラ~~と寝て、起きてからもダラ~~と 仕事をしていてもダラダラ~~と流すだけ
緊張感がない やる気が起こらない 意気込みが感じられない
そんな毎日です
仕事をしている間以外では ただ眠いだけ
「何でこんなにだるいんだろう」 「何でこんなに眠いんだろう」
元主任の経歴の長い人に尋ねたことがあります
「3年ね、私も同じだった。 慣れと疲れが出てくるころでやる気が起こらなくなってしまう そんな時は休まなくちゃ 身体が嫌がっているのだから」
そうだな そうかもしれないね
連休を取ってフィリピンに行っても忙しくて休みにならないし 昔のように静かな温泉でしばらく湯治 2週間もすれば体の底から力が湧いてくるのでしょうが
ひとり身ならともかく 今は家族がいるし お金がないわけじゃないけど なかなか踏ん切りがつかないところがあります
夏油温泉は遠いし 新湯温泉は新燃岳が活動中 地獄や垂玉温泉は熊本地震で橋が落ちちゃったし
そんなとき 西城秀樹が亡くなってニュ~スになりましたが 以前、彼が脳梗塞を起こす前は「異様に眠たかった」とか、、、
この言葉、、、響きましたね
もしかしたら、、、こっち、、、?
母方のばあちゃんと伯父さん 今の私と同じくらいのときに脳梗塞を起こして どちらも67歳で亡くなっています
これはちょっとヤバイかな?
ちょっとどころか、、、かなり、、、大変に危ないかな?
脳のなかは見えないですしね
これは温泉でゆっくり、、、どころじゃないかも
脳梗塞を起こして身体が不自由になれば 仕事も出来ませんし 我が家の生活も足元から崩れていきます
考えてみたら「綱渡り」のような人生であり生活ですね
65歳までは耐え忍んで働く その前の来年の年末までには株をたたき売って現金化しなくちゃいけないし そして65歳から年金をもらいながらも働いてお金を貯めて カミさんに家も買ってやらなくちゃ 頃合いを見て仕事を引退 後はフィリピンでのんびりとした生活を送る
今と変わらない生活なのですが それも五体満足であっての話
そう考えるとムチャクチャ不安になってきますね
これはもっと働いた方がいいかな
綱から落ちる可能性があるなら 今の間もっと「銭」「銭」「銭」を追いかけておいた方がいいかな
お金なんて「あっ!」という間に無くなってしまうことを 13年間の無職生活で身に染みてわかりましたし
なかなか人生って思うようにならないものですね
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消えた年金 |
4月10日 火曜日
暖かな福岡です
以前から書こうと思っていた年金
若いころは 「年金なんて貰えるわけないじゃん」
そう広言していた私
私の生涯、、、お金にはあまり縁がなかったのですが 若いころはやはり、、、今より豊かだったのでしょう
気持ちの上だけかもしれませんが、、、
しかし、、、、
いつのまにか年金の該当年齢に近づくと
「貰えるものは、ぜひ貰わないと」に変化していきます
私は昭和30年生まれ 昭和29年生まれの人は一部ながら年金が61歳から支給されますし
「それって不公平じゃない?」
そう思っていても 年代が下がるにつけ条件が悪くなるこのご時世
「あなたはまだマシですよ」
そう返されるのが見えてますので黙っていましたが、、、
昨年末には 「よ~し、、、来年からは少額ながら年金が入ってくるぞ」
期待値も高まります
年金の申請受付は該当年齢になる誕生日の前日から
私は12月30日が誕生日ですから前日は12月29日 公官庁はすべて正月休み
「カアちゃん 何でこんな日に俺を産んだんだ」
そう言いたいところですが じっと耐えて、、、正月が明けるのを待っていました
年明けすぐは混みあうだろうな、、、との予想はあったのですが
とりあえず、、、
必要な物や要領がわかりませんので 年金ダイヤルに電話してみます
しかし何回かけても繋がらないのです
翌日、また翌日電話しても同じ
「繋がらない電話なんてイミないやん」
しかし、、、
申請が遅れたとしても貰えなくなるわけではないでしょうが こちらは目の前にニンジンをブラ下げた馬のごとく前しか見えません
ただひたすら、、、電話 繋がらなくとも、、、また電話
親の仇のように電話しまくります
しかし繋がりません
妹が年金ダイヤルのオペレ~タ~やっているのを思い出し
「お~~い 必要な物を教えてくれ それと年金事務所に予約入れといてくれよ」
「それは出来ないシステムになっているのでムリ 電話は月曜日だけ5時以降でもできるのでその時集中してかけてみたら それ以外ではまず繋がらないから」
言われたようにただひたすら電話をして タイムリミットの6時30分ギリギリに電話がつながりました
必要な物、、、
65歳までは一部だけですが 最初の申請時に65歳からの加給年金など一切合切やってしまうそうで、、、
そしてこれがカミさんは外国人 それも親子ともども在比ですから多いのです
何とか揃えて1月中旬の夜勤明けに年金事務所に行ってきました
眠いので目をこすりながら しかし、お金のため、、、耐えるしかない
今の時点で会社を辞めたとして試算していきます 65歳からは月額175000円
ほ~~10万円ぐらいと思っていたけれど やっぱり加給年金って大きいんですよね
62歳からは月額 59302円
係官が書いていきますので 前に座っている私の方からは反対になりますが
「ま~~そんなものだろう」
書類も揃わなかったカミさんの無所得証明書も 月末に現地に行って取り、帰国後郵送すればOKに
自転車に乗って帰るとき
「あ~~何とか終わったね。バタバタしたけど、、、」
これで少ないながら私も年金をもらえる 少しだけでも貯金ができるし すこし生活にもゆとりが出るだろう
家に帰り、シャワ~をし 勝利のビ~ルを飲み干して
年金の書類に目を通していると
「あれ、、、何これ?」
今年からもらえる年金の欄には
4941円 停止コ~ド 501
思わず、、、「おれ、、、何か悪いことをしたか~?」
数日後、仕事を終わって車を拭きながら 隣の人とちょうど年金の話になったのでそのことを話すと
2台隣の人が私のところにやってきて
「どうもおかしいな?と聞いていたら 徳さんは去年9月に事故にあい、 たまたまそのときの所得が下がったから、少し年金が出るようになっているだけです 年金事務所は常に所得を管理できるシステムを持っているのでしょうね それも今年の3~5月の収入で見直しされて6月からは0になります 月収28万円以上は全額カットですから徳さんが貰えるはずないでしょ 私も60歳から65歳までは1円も貰ってないです」
なんじゃ そんなことだったんか?
年金ダイヤルに必死に電話した私の努力は、いったい何だったのか?
年金さんよ 短い付き合いだったね
寂しいし哀しいけど
「少しの貯金」と「少しばかりのゆとりある生活」と一緒に
「サヨナラ」しなくちゃね
バイバイ、、、
思わず歌詞が泣けてきます
替え歌で「年金時代」
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